人生はあなたの健康に重大な害を及ぼします『人生はあなたの健康に重大な害を及ぼします。適切に管理できない場合、すぐに治療を受けてください』ちょうど五年前、厚生労働省からそんな告示があった。 どんな感想を抱くかは人それぞれだと思うが、その通達を初めて見た時の感想は「なに馬鹿な事を言っているのだろう」だった。 少なくとも俺の人生は充実していた。といっても、普通の家に生まれているし、特に優れた才能があるわけじゃない。卒業した大学も二流だし、就職した先も業界で中堅に位置する普通の会社だ。 ありていに言って俺の人生は平凡そのもの、適当に石を放り投げれば当たる程度の代物でしかない。傍から見れば、つまらない人生と評価されても仕方がないだろう。 だが、そんな俺にも誇れるものがある。それは、高校の頃から付き合っている彼女の存在だ。 彼女も俺と似たような、傍から見れば平凡でつまらないと評価されるような人生を歩んでいる。だが、俺とは決定的に違う点があった。 それは、人生を楽しむ才能があるというところだ。 普通は見逃すような小さい花を見つけるように、少し視点を変えれば見つかる美しい景色を眺めるように、人生を余すところなく楽しみつくしていた。 そんな彼女から、俺は自然に『楽しむ視点』を学んでいた。所詮は門前の小僧なので彼女に比べれば見落としが多いものの、それでも俺の人生を彩るには十分だった。 その視点を与えてくれた彼女を俺は尊敬していたし、愛していた。そして――俺の自惚れ出なければ――彼女も俺と同じはずだった。 だが、そんな素晴らしい彼女が、なぜ俺のような人間と付き合ってくれるのか。疑問に思い、一度だけ質問したことがある。すると彼女は、 「なんで宝石には価値があるのか、わかる?」 とだけ答え、後は自分で考えて、と言いながら楽しそうに笑っていた。 そして、小さな喧嘩などを繰り返し、そのたびに仲直りして、じゃれあうように緩やかな付き合いが続くうちに、気がつけば七年がたっていた。 ポロポーズの言葉はなかった。ただお互いが当たり前のように、一緒になる事を決めたのだ。 しかし、お互い社会人一年目。豪華な式を開く金銭的、時間的な余裕はなかった。そのため、婚姻届を役所に提出する事を結婚式とし、親しい友人たちと安い居酒屋で飲み会を開いて披露宴の代わりとした。 地味だが、これで問題はなかった。いまさら仰々しく式を開かねば将来を誓い合えないような仲ではなかったし、わざわざ披露宴を行うまでもなく二人の仲は周囲に公認されていた。 少し薄い飲み放題用の酒で乾杯し、いつもの飲み会より少しだけ騒いだ。 特別なことはないが、幸せな時間。全員がいい気分になった頃合でお開きになり、口々にあたたかい祝福を貰いつつ、俺と彼女は居酒屋を後にした。 そして帰り道、彼女は車に轢かれた。 即死だった。 酔っ払いの車がガードレールの隙間から突っ込んできたのだ。 その瞬間は、今でも夢に出る。 もし一瞬早く気づけたなら、もし俺が道側を歩いていたなら、もしもっと早く、あるいは遅く居酒屋を出ていたなら、もし披露宴を開くことが出来ていたなら。 いくらでも湧いてくる可能性の話。だが、可能性というのは過去に対して効力を持たない。過去は決して変えることが出来ない。 だが、考えずにはいられない。 あの日から一年。毎日のように、考えずにはいられない。 そんなある日、会社帰りにあの告示が書かれたポスターを見かけた。 『人生はあなたの健康に重大な害を及ぼします』 白地に黒い文字で、なんの装飾もないポスター。 当時は理解できなかった言葉。 だが今は理解できた。 眠りが浅くなった。食事が上手く喉を通らなくなった。日々が曖昧になった。何もしない時間が増えた。 彼女と出会ったことが、そして彼女を喪うことが人生であるなら、それは確実に俺の健康を蝕んでいる。 彼女が死んだ瞬間から、俺は両足を死の汚泥に浸したまま、惰性だけで歩いている。究極の無気力とは、俺にとっては従順だった。何かを自発的にしようという気持ちが無くなり、ただ言われた事を唯々諾々と行い、日常を壊れたテープのように繰り返すだけ。反発したり、何もしたくないという感情すら湧いてこないのだ。 しかし、汚泥の粘性は高い。自ら歩もうとしないものの脚を絡め取り、自らの底へと流し込んでいく。俺の足も、次第に歩みが緩やかになる。 それでもよかった。どうでもよかった。自分でもなぜ歩いているのか理解できていない。すぐにでも歩みを止めてしまいたい。 いや、止めるべきなのだろう。続く文字を読んで、そう思う。 『適切に管理できない場合、すぐに治療を受けてください』 治療は、告示と同時に運営が始まった専門の『施設』によってのみ行われる。予約も保険証も要らず、ふらりと立ち寄って治療を受けたい旨を伝えれば、誰でも治療を受けさせてくれる。 治療とは具体的に何をするのか。 人が生きると書いて人生という。人生の治療とは、即ち生からの解放であると、その施設は定義していた。 つまるところ、この『施設』は公営で殺人を行う場所なのだ。 なぜこのような『施設』が作られたのか、その理由を俺は知らない。興味が無かったからということもあるし、そもそもこの施設に興味があるような人間が理由に興味を持つとは思えない。 現に、俺の興味は死ねるというただ一点のみに集約されていた。 彼女が死んでから一年が過ぎている。十分に生きた。苦しんだ。もういいだろう。もう止まろう。 そう思ったときには、俺は電車へ乗っていた。施設は隣県にあるという。到着する頃には日も暮れているだろうが、そんなことは別に問題ではなかった。もしすでに『施設』が閉まっていたら、玄関の前で一晩過ごそう。 電車に揺られながら、俺はなんとなく町並みを眺めていた。 晴天に輝く月が照らす道路を歩く。田舎の道だ。駅前にはそれなりにあった家屋も、その多くが畑と空き地に置き換わってしまっている。 だが、それも当然だろう。火葬場の近くに人が住みたがらないように、『施設』の周辺に住みたがる人もいない。近づけば近づくほど、人気が、生きるものがいるという感覚なくなっていく。 あまりにも静寂だった。まるでこの道自体が『施設』の一つであるようだ。もしこの場で「この道を歩き終わったとき、お前は死ぬ」といわれても、納得できそうだった。 黙々と、どれほど歩いたか。時間も距離も測ってはいないが、ようやく『施設』が見えた。足はある。もしあの世というのが現世となんら変わらない世界でないのであれば、俺はまだ生きているようだった。 ぼんやりと見える『施設』は白く、大きく、無機質な四角形だった。月明かりに照らされたそれは、建物の幽霊といった風情だ。 明かりはついていた。駐車場に立てられた時計は十時すこし過ぎを示している。人が生きることに休みがないのと同様に、この『施設』にも休みは無いらしい。 手動の扉の前に立つ。特に感慨も無く。 扉は鉄製の手動で開く形式だった。今生と隔絶した、くぐる事を躊躇わせる威圧感があった。気軽に利用できないように、意図してそういう造りになっているのだろう。 この扉を開いて、中で手続きを済ませれば、俺は死ぬ。この『施設』風に言うなら、治療される。 死ぬことに驚くほど恐怖が無かった。死後の世界はあってもなくてもいいが、彼女がいるならあって欲しい。そう思った程度だ。 ドアノブに手を伸ばした瞬間、妙な違和感が腰の辺りにあった。なにかに裾をつかまれているのだ。 まさか、幽霊というわけでもあるまい。振り向き、その正体を見る。 それは、女の子だった。ベレー帽のような白い帽子の下に黒く長い髪をたらし、どこかで見た覚えのある名門小学校の制服を丁寧に着込み、意志の強そうな瞳でじっと俺を見上げている。 今の時間は、小学生が出歩くには遅い。まして周辺に民家一つ無い場所だ。不自然と言ってもいい。 まさか、本当に幽霊なのだろうか。これから仲間入りする俺に、なにか忠告でもしに来たというのか。 そう益体も無い事を考えていると、少女が無言のまま裾を引っ張り出した。力こそ強くないが、そこには確かに生きている力があった。 連れられた先は『施設』に併設されているさほど広くない公園だった。いかにも無駄だったが、ゴミ処理場が見た目は綺麗なのと同じような理由から造られたのだろう。 いくつか遊具が置かれた場所まで引っ張られ、そこでようやく女の子は足を止めた。裾はしっかりと握ったままだ。 耳が痛くなるような無音。だからこそ、女の子が何かを話そうとしている気配だけは伝わってくる。 しばらく様子を見ていると、女の子が意を決したように面を上げた。 「あ、あの」少し上ずった感じの声が、その小さな口から出てきた。「私を町まで送ってくださいませんか?」 このご時世、馬鹿に丁寧な話し方をする女の子だった。着込んだ制服といい、やはりどこかのお嬢様なのだろう。 だが、だからこそおかしかった。お嬢様なら、こんな時間に、こんな場所で、たった一人でいるはずがない。万が一そういう状況がありえたとしても、一人で帰れないなどということはありえない。もし帰れないというなら、一体どうやってここまで来たというのだ。 返事はしなかった。ただ無言でいることで拒絶した。 女の子もそれを察したらしく、俯いて押し黙る。 再び訪れる静寂。手持ち無沙汰な俺はその場で立ち尽くし、女の子はなにやら考え込んでいるようだった。 妙だった。目の前の女の子もそうなのだが、自分自身もだ。 別にわざわざこの子に付き合う義理は無い。満足に食事もしていないから一年前と比べて虚弱になったとはいえ、それでも小学生を振りほどけないほどじゃない。その気になれば、まったく無視して『施設』に入ることは容易だった。 だのに自分は、こうして女の子に連れられて公園にいる。 死ぬ前に面倒ごとを避けたいという気持ちがあるのかもしれないが、別に深く追求するつもりは無かった。興味が無いし、そもそも今から死のうという人間がそんな事を考えたところで無意味だった。 だが、このまま立ち尽くすのも、また無意味だ。それに体力の衰えた俺の足はもう限界に達しており、いつ崩れ落ちてもおかしくないような状態だった。 周囲を見渡し、目的のものを見つける。公園の必需品、ブランコだ。 突然歩き出した俺に女の子は驚き、手の力を強める。しかし、目的地がブランコであること察して、恐々と手を離した。 ブランコに崩れ落ちるように腰掛ける。その瞬間、足で澱んでいた疲れが脳天まで突き抜けた。痺れが全身を駆け巡った。 不思議だった。死を望み、考える事を止めた俺でも、体は当然のように疲れを主張してくる。体も死を望み、そして朽ちてくれるのならこんな苦労はいらないのに。 女の子は、ぐったりとブランコに座り込んだ俺の様子をおずおずと眺めた後、隣のブランコに腰掛けた。 無為な時間。なにげなく空を見る。月と、星が見えた。 そういえば月や星を意識したのは、久しぶりだった。最後は確か、大学生の頃に彼女と山へ出かけたとき以来だった気がする。 彼女に誘われ、山中のペンションに泊まった。そして彼女が突然「星を見よう」と言い出し、寒い季節だったにもかかわらず寝間着姿でベランダに飛び出したのだ。 その夜に月はなかった。ただ満天の、本当に天を満たすほどの星があった。 圧倒された。ただひたすらに、宇宙に飲まれるような気分になった。重力すらも断ち切って、宇宙にいるようだった。 そうして一時間ほど星に魅せられ、翌日二人揃って軽い風邪を引いたのだ。 楽しい思い出。かけがえのなかった時間。 胸が疼いた。古傷を抉り出したように。 そう感じたことに気づき、絶望する。 この一年、片時も彼女の事を忘れたことはなかったのだ。子供が傷をいじり続けるように、ひたすら彼女のことだけを、想っていたはずだ。 それなのに、古傷だ。傷を抉り続ければ、ずっとこの思いは消えないはずだった。生き続ける限り、この痛みは俺を苛み続けるはずだった。 それなのに俺は、痛みが鈍くなっているのに、気がついてしまった。 俺は確かに彼女の事を考え続けていた。これはゆるぎない事実だ。 だが反面、ただ呆けていただけではないか、という不安が頭をよぎる。 あのポスターを見るまで、俺は考える事を放棄していた。自分の意思が無い、従順な死体だった。そんな状態の人間が、真剣に思い続けることなど、出来るはずもない。 内蔵が鉛を呑んだように重くなる。肺が焼けそうに熱い。頭をハンマーで殴りつけられたような衝撃。目の前が比喩でなく真っ暗になった。 月の明かりも、公園の外灯さえも見えない。あまりの衝撃に何か異常でも起こったのかと一瞬疑ったが、誰かに目隠しをされていることに少し遅れて気づいた。 誰の手かは考える必要も無い。子供特有の高い体温。あたたかい手だった。 「なにか悲しいことがあったら、何も見ないほうがいいです。全部と向き合っていたら、壊れちゃいますから」 そう、幼い声で老成したような事を、いつのまにか背後に立っていた女の子は言った。 今まで、目を閉じることは辛いことのほうが多かった。彼女が轢かれる場面が、唐突に甦ってくるからだ。 だが、人に触れられている。これだけで、随分と違った。 ぬくもりが、安らぎを与えてくれた。 「……目を閉じたって、何も変わらない」 無意識に声が出た。誰かと話したい。彼女が死んでから、はじめてそう思った。 だがそれは、彼女を忘れているのではないかという恐怖からの逃避だった。そう理解はできても、言葉は止まらなかった。 「俺は忘れない。忘れられない。忘れたくない。悲しみは思い出だった。痛みは想いだった。でも、俺は悲しみを、痛みを、忘れかけている。一生持ち続けるはずだったものを、たった一年で。俺は……」 心から、言葉がこぼれる。推敲などしていない、俺の中身を垂れ流す。 しかし、これは懺悔ではない。頭のどこかで、そんなものはただの言い訳だと罵倒する自分がいる。こう言うことで、自分が救われるのだ。こんなに辛かったから、忘れる事をこんなに怖がっているから、許してくれと、言い訳をしているのだ。縋れそうな相手が目の前にいるから。 言葉が出なくなるまで、ゆうに十分は喋り続けた。これだけ喋ったのは本当に久しぶりだった。喉が嗄れ、ジンジンと痛む。 情けない俺の言葉を、女の子はじっと聞いていた。手は俺の視界をさえぎったまま。 女の子は何かを吟味するように時間を置き、小さな声で話し始めた。 「痛みや悲しさを忘れることは悪いことじゃありません」 それは、今の俺の全てを肯定する一言だった。 「ころんで怪我をしたら、血が出て、かさぶたができます。忘れることは、心のかさぶたです。痛い痛いって言う心が、怪我を治そうとしてるんです。それは、自然で、あたりまえのことなんです」 母が子供にするように優しく、女の子はそう言った。 人の心は脆い。だから辛い事を忘れようとする。それは理解している。だが、それを理解することは、忘れられる程度の想いだったと、彼女を貶めるような気がした。 「かさぶたがとれれば、怪我は無くなる。なら、俺の想いは無くなろうとしているのか。なら、そんなものは……」 「違います」 駄々をこねる子供のような屁理屈を、即座に、少し強い口調で否定される。怒っているというより、たしなめているといった雰囲気だった。 「確かに怪我はなくなります。でも、怪我したことは、痛かったことは、その想いは、なくなりません。ただ、痛みがなるだけです」 「だが」 「痛みが無いから忘れてしまうというのであれば、それこそその程度のものだったということです。痛くなくなることが怖いというのは、その想いに対する侮辱です。本当の想いなら、そんなものが無くても、永遠です」 風が吹く。清涼なそれは全身を舐め上げ、澱んでいた体の中に吹き込んできたような気がした。 俺は今まで、彼女を想う事は痛むことだと信じていた。彼女を想うだけで心が悲鳴をあげ、気絶しそうな痛みに苛まれたのだから。 しかし、彼女が死ぬ前はどうだったか。彼女を想う事に痛みなど微塵も感じなかった。それどころか、どんなことでも出来ると、そう力をもらえた。 彼女を想うこと。それは痛みでもなんでもなかったのだ。 彼女が死んでしまったことは、確かに心を抉った。大怪我だ。瀕死の重傷だ。 だが、それだけが彼女と俺の全てだったか。 違う。絶対に違う。 ならば、悲しみがなくなることが、痛みがとれることが、彼女を忘れることであると怯える必要はないはずだ。 そっと女の子の手に自分の手を添え、握る。急な行動に女の子は少しビックリしたようだったが、すぐに俺にその手を委ねてくれた。 上を向いてから、ゆっくりとその手をはがす。次第に黒い視界が紺に変わり、星が、月が、見えるようになる。 満天とはいえないが、雲ひとつ無い綺麗な晴天の星空だった。 胸には鈍くなった痛み。彼女との思い出が、再び傷口を撫ぜている。 思い出はいつもに比べて鮮やかに甦っていた 「私の両親は、二年前の今日、ここで死にました」 しばらく二人で空を見ていたら、女の子がふいに語りだした。 「両親が死んだ後、たくさんの人たちが私を引き取りたいと申し出てくださいました。ですが、悪い人に騙されていっぱいあったはずのお金がほとんど無くなっていて、逆に借金があるとわかると、私を引き取りたいといってくださる方は一人もいなくなってしまいました。幸い、父が懇意にしていた弁護士の方……今のお父さんが借金を綺麗に清算してから私を引き取ってくださったので、こうして生きていられるのですが」 照れたような笑い声が耳をくすぐった。その本心はうかがい知れないが、少なからず懐かしむような雰囲気は感じ取れた。 「いろんなものを恨もうかと思いましたけど、できませんでした。何かを恨もうとしても、恨めば恨むほど両親が死んでしまったことを思い出して、悲しくて、苦しくて、どうしようもありませんでした。結局、恨んでもどうしようもないから、ただ悲しむことにしたんです」 俺は女の子の独白を聞き、俺も似たようなものだったことを思い出していた。 彼女が轢かれた直後は本当に呆然としていた。死を受け入れられず、寝食すらもできずにただへたり込んでいた。 そうして葬儀が終わった頃、ある日突然に怒りと恨みが湧いてきた。運転手にはできうる限りの極刑を、可能であるならこの手で、とまで考えていた。 敵討ちと意気込んでいたように記憶しているが、今にして思えばそれは形を変えた逃避だった。そうでもしなければ、大きすぎる悲しみに耐え切れなかったから。 だが、さらに時間が経つと、敵討ちなどどうでもよくなった。怒れば怒るほど、俺の中の悲しみが肥大化し、同時に彼女の事を思う割合が減少していくように感じたからだ。 もちろん、運転手に対しての怒りは今でもある。もしこの場で目の前に現れれば、自分で自分を押さえられる自信は無かった。 だが、運転手は高い塀に囲まれて生活を行っているのだ。そんな相手に怒り、恨みを募らせるぐらいなら、彼女を想うために時間を使いたかった。 正しいか正しくないかの二元論で言うなら、俺の行動は正しくなかったのだろう。だからといって何が正解なのかはわからないし、その正解を選択できたとも思えなかったが。 「立ち直れたと言えるのは、つい半年ほど前です。悲しんで、いろんなものに辛く当たって、いっぱい新しい家族の人たちに迷惑と心配をかけて、たっぷりと時間を使いました」 耳が痛かった。俺も、きっとたくさんの人に迷惑をかけているのだろう。 それは家族だったり、友人だったり、同僚だったり、会社だったり。パッと思いついただけでも、かなりの数が浮かんできた。 その中に、目の前の女の子がいた。すんでの所で俺を引きとめ、そして救ってくれた、どこかのお嬢様で、その辛い体験からか妙に老成した、不思議な子。 きいきいと音がする。女の子がブランコを漕ぎ出したようだ。 「……君はいつもこんな事をしてるのかい?」 なんとなく、そんな質問が口を付いて出た。 「いいえ。個人的には嫌ですが、自分の意思で死のうとしている人を無理に止めることはできません。きっと、その人にはその人なりの理由があるはずですから。でも、今日は特別でした」 「特別?」 「はい。特別です。今日は私の両親の命日ですから、吹っ切る意味でも、一度ここに来ておきたかったんです。お父さんは反対しましたけど」 その父親の気持ちはわかる。娘がこんな場所に行くのを喜ぶ親はいないし、なによりその親がそこで自殺しているのだ。元気になってきたとはいえ、ひょっとしたら後追いをしないとも限らない、と不安にもなるだろう。 「それで、本当はもっと早く帰るつもりでしたけど、この施設を見ていて気が変わったんです。もし今日ここを利用する人がいたら、止めてみようって。一応、決心が付かない人や心変わりした人のために宿泊施設があるようですから」 いよいよブランコが大振りになる。そこで、女の子は突然手を離した。 放物線を描き、ブランコの周りにある柵を飛び越え、丸まって着地する。 「なにか……予感があったのかもしれません。救える人が来るかもしれないって。見事に的中しちゃいました」 「……そうだな」 俺もブランコを大きく漕ぐ。景色が目まぐるしく変わっていく。一年分の時間を、一瞬で取り戻すように。 そして、ブランコが半円を描くほど激しく動き始めたとき、しっかりとつかんでいた鎖を手放した。 浮遊感。まるで空に吸い寄せられるよう。 目を閉じると、自分が魂だけになったように感じた。重力にも、自分の体にも縛られない。 そこで、彼女を見た気がした。 思い出せる。彼女の顔。彼女の声。彼女のぬくもり。 俺は痛みを忘れるだろう。悲しみも風化するだろう。ひょっとしたら、顔を、声を、ぬくもりを、忘れるかもしれない。 だが、その思いがあったことは、絶対に忘れない。 重力が体を縛る。落ちる感覚に体を強張らせる。疲弊した体は上手く動かず、俺は地面を無様に転がった。痛みが体を震わせた。 小さな悲鳴と、あわてて駆け寄ってくる足音が聞こえる。 目を開くと、そこには心配そうに覗き込んでくる女の子の顔があった。その後ろに、月が見えている。 「……ありがとう」 自然と声に出た。 「……はい」 嬉しそうな返事があった。 体中に鈍い痛みがあった。 服がところどころ切れ、体が外気にさらされている。 生きていた。 まだ、生きていた。 彼女の事を吹っ切るには、まだ時間がかかるだろう。痛みも、悲しみも、無くなってはいないから。 だが、生きていこうと思った。 もう少し、生きてみようと思った。 もう少し生きてみて、また死になくなることがあるかもしれない。 それはそれでいいだろう。そうなったときに考えよう。 「明日……」 だが、とりあえずはやることがあった。 「……一周忌は過ぎたけど、墓参りに行くよ」 今度は返事が無かった。ただ、優しそうに、嬉しそうに微笑む顔だけがあった。
<おわり>
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