あの空をこえて今まで生きてきて、楽しかったと思えたことがない。秋も終わりに近づき、肌寒くなった海風に晒されながら私、柊木碧(ひいらぎ あおい)はそんなことを漠然と考えていた。 そりゃ、世間一般から見れば十分幸せだろうし、私自身も自分が不幸せだと思ったことはない。 けど、幸せであると言うことと、楽しいと言うことは、意外と一致しない。 普通の親の元で育ち、特に不自由なく暮らしているし、昔から要領が良かったので親戚中から可愛がられ、友人関係も良好だ。 高校受検を間近に控えているからいろいろストレスはあるものの、そんなのは誰だって一緒。どこにでも転がっている。 贅沢なんだと思う。もしくは当たり前に楽しいことを甘受しすぎたせいで、楽しいという感覚が鈍っているのかも知れない。 逆に、ちょっとイヤなことならすぐ思いつく。要領よく愛敬を振りまいていたせいで、厄介ごとを背負わされやすいのだ。 今日はいつも休んでばかりのクラスメイトに、プリントを届ける仕事を頼まれた。普段は先生が直接届けているのだが、たまにはクラスメイトが届けるのもいいだろうと委員長である私にお鉢が回ってきたのだ。 相手の名前は御崎空也(みさき くうや)。一学期はちらほら見かけたような気もするが、夏休み明けからは一度も見ていない。当然、友達というわけでもないし、顔もあまり思い出せない。 そういうわけだから、どんな人物かもわからないし、何を話せばいいのかも解らない。せいぜい当たり障りのない会話をして、プリントを渡せば終わりだろう。それも本人が出ればの話で、親が対応してきたらそれで終了だ。 二階建ての家の前に立ち、先生に手渡されたメモを見て、家の特徴を確かめる。古びた見た目と昔ながらの造りで、青い瓦の屋根と大きなガレージがある。間違い無さそうだ。 身なりを整えて、ドアチャイムを鳴らした。 夕暮れの真っ赤な太陽と、いっそう冷たさを増した気がする海風に身を縮こまらせながら、しばらく待つ。何の反応もない。続けてもう一回押そうとしたところで、ドアに貼り付けられた紙が目に入る。 『新聞、セールス、お断り。用がある人はここまで』 そんな文字の下に、大雑把に書かれた地図があった。場所は遠くない。この先にある防波堤の階段を下りてすぐの場所だ。 別に郵便受けにプリントを入れておいてもよかったのだが、気まぐれで直接手渡しすることにした。直接渡したほうが後々問題にならないだろうという打算もある。 それにしても、あんな「この家に人はいません!」と宣言するような張り紙をするとは一体どんな神経をしているのだろうか。 防波堤のコンクリートでできた階段を下りる。 夏場ならこの時間まで泳いでいる人も多いし、これから先の時間はバーベキューや花火をする人で賑わう。しかし、冬の砂浜には誰もいなかった。当然だろう。私だって、冬に砂浜へ降りるのは初めてだ。 そんな寂しい砂浜を見渡すと、目標はすぐに見つかった。防波堤に寄り添うように建つボロ小屋がそうだろうとあたりをつける。 その瞬間、小屋が爆発した。 正確に言えば、大きな音と共に小屋から誰かが転がり出てきて、ほとんど同時に小屋の天井を突き破って何かが飛び上がったのだ。 息をのむ光景だった。赤い夕陽を浴びながら、白い尾を引いて飛び上がるそれは、何故だかひどく私の心を捉えた。 何かが見る間に煙と共に空へと飛び上がっていく。それはまるで、流れ星が空へ帰っていくようにも見える。 今の気持ちを作文しろといわれたら、きっと私は支離滅裂なことを書くだろう。 疑問、不審、驚愕、恐怖、好奇…… そして何より――感動。 力強く重力に逆らい、自分の力だけで空に向かうそれは……キレイだった。 しかし、見蕩れることが出来たのは、十秒にも満たなかった。 一直線に空へ向かっていたはずが、急にギクシャクと動き始める。そして反転。見事に海面へと飛び込んでいった。 唖然となる。一体アレは何で、何がしたかったのか。 気がつけば、私は小屋から転げ出てきた人物に近付いていた。 油まみれのツナギを着て、何かが飛び込んだ先を熱心に見つめる人物。同世代で、どことなく見たことがあるような気がするから、たぶん彼が御崎空也だろう。 不意に、言葉が出てくる。 「……何してるの?」 御崎は答えた。 「空を目指してる」 目の前にコーヒーの入ったマグカップが差し出される。 「どうぞ。インスタントで悪いけど」 「ありがとう」 湯気の立つそれを一口飲む。苦い味に顔が歪むが、冷えた体にはとても嬉しい熱さだった。 私はあの後、御崎の家へ案内されていた。 仮にも受験生なのでやることがないという訳ではないのだが、取り立てて差し迫った用事はないので、そのまま案内されることにした。 そのままダイニングキッチンに通され、私はこうして苦くて熱いコーヒーをチビチビ飲んでいる。 対して御崎は、カップをひっくり返す勢いで一気にコーヒーを飲み干していた。熱くないのだろうか。 「それで、どうして柊木がプリントを届けに来たんだ?」 名前を覚えられていたことに一瞬ドキリとする。しかし、なぜかそれを悟られたくなかったので、平然と言い返すことにした。 「先生が、たまには自分以外の誰かが届けるのも悪くないだろう、って」 「それは……悪かったな。迷惑かけたみたいだ」 「いいのよ。私も今日まで知らなかったんだけど、意外とご近所みたいだから。これくらい、たいした手間じゃないわ」 「そう言ってもらえると助かるよ。ありがとう」 そう言って、御崎が笑顔を見せる。 どうやら、悪い人では無さそうだ。正直に言えば、ずっと休んでいたのはなにか素行や性格に問題があるからだと思っていた。 まあ、問題があるといえば、あるのだが。先ほどの光景を思い出す。 聞いていいものかどうか迷う。でも、疑問を疑問のままにするのは気分が悪い。そんな建前と、知りたいという純粋な気持ちの前に、逡巡など簡単に吹き飛んでしまった。 「ねえ、質問してもいいかしら」 「ああ。さっきのアレか?」 「そう。あれは一体何をしていたの?」 「ロケット作ってた。えらく単純なミスしてあの有様だけど」 事も無げに、さらりと御崎が答える。もっとも、顔は苦々しく歪んでいたが。 ロケット。日常から離れた単語に、頭が一瞬働くのを止めた。 「ロケットって、あの宇宙に打ち上げるやつ?」 御崎がこくりと頷く。その顔は平然としたままで、とても嘘をついているようには見えない。 それでも「嘘だ、信じられない」と、思うのは難しい。なぜなら、私は先ほど見ているのだから。あの天に上る流れ星を。 しかし、個人で、しかも中学生が打ち上げられるほど簡単な代物なのだろうか。確かに最近、恒久的な月面基地が完成し、火星でも似たような計画が進んでいるというニュースを見たことがある。だけど、その技術が一般人に普及しているというのは見たことも聞いたこともない。 それより、もっと大きな疑問があった。これ以上立ち入っていいか少し躊躇いもあったが、一度動いてしまった口は簡単に止まってくれなかった。 「でも、ロケットって今ではあんまり打ち上げてないんじゃない?」 「……そうだな」 そう。現在ではロケットの打ち上げはあまり行われていない。単純に宇宙へ行くなら軌道エレベータがあるし、超高高度旅客機や軌道往還機なんかもあるからだ。 それでもロケットの需要がなくなるわけではないが、最盛期よりも格段に減っているハズだ。詳しくは解らないけど。 私が質問を躊躇ったのはこのせいだ。廃れ始めている技術に固執している、と言ったように思われて、不快に感じられるかもしれないからだ。 そんな心配をよそに、御崎は真剣に、けれどどこか楽しそうな表情になる。 「俺には夢がある」 「夢?」 力強く御崎が頷く。 「俺は、どこまでも遠くを目指したい」 それは単純な、それでいて力強い願いだった。 先ほどの光景を思い出す。赤く広がる空へ上る流れ星。混乱した気持ちの中で、一つ大きな感動の気持ち。楽しいことがないと分かったような事を考えていた自分が恥ずかしくなるほどの気分の高揚。 思い出すだけでも、そして考えるだけでも胸が熱くなる。 あれが宇宙まで飛べたら、どれだけ楽しいんだろう。 「ねえ」 そのとき突然降って湧いた考えを、私はそのまま口にする。 「私も、それを見ていい?」 ああ、さっきから私の口はどうなってるんだろう。まるで脳に口がついているかのように、考えをそのまま話してしまっている。 |
驚いた顔のままの御崎を見ながら、私は答えを待った。 呆気にとられたままの御崎から了解をもらってから、私の生活は小さく変化した。 まず、学校から家に帰るまでに御崎の家に寄るようになった。親の目を掻い潜って時間を作り、製作の手伝いをするようになった。そして、何気なく見る新聞やテレビで空の話題を意識するようになった。その程度だ。 空はますます高く遠くなっている。変化は小さくても、確実に時間は過ぎていく。 推薦入試を間近に控え、少し慌しくなった一月の休日。私は御崎家のガレージにいた。 我ながらどうかと思うけれど、推薦は元の成績でほとんど決まるので今焦っても仕方がない。それに、暇な時間は年号や単語の記憶に使っているし、家での勉強時間を増やして補っている。問題ないだろう。たぶん。きっと。 「柊木、ちょっとそこの道具箱とってくれないか」 「ん。これだよね」 手元にあった小さな引き出しがたくさんある箱を渡す。御崎はそれを受け取ると、その中から細かな部品を取り出した。 手持ち無沙汰な私は、ガレージの中を何気なく見回す。 広いガレージだが、車は一台もない。代わりにロケットの部品であろうものが所狭しと並べられている。 壁には、今までに打ち上げたロケットの写真と、その設計図。空に届かなかった夢の残滓たちだ。 そして、部屋の中心には、分解されていくつかのパーツになっているものの、今まさに組み上げられているロケットがある。 御崎の製作に付き合い始めた当初、実はまだロケットが作れるかどうか半信半疑だった。あの時は勢いもあってなんとなく納得してしまったけど。 それをネットで調べてみたら、意外な事実が明らになった。 今では、ロケットを作るのはそれほど難しいことではないらしいのだ。もちろん種類によるけど。 小型のものなら設計図は私でも見つけることが出来たし、専用パーツは希少でも流用可能なものを含めたら意外と入手も容易なようだ。 ただ、驚いたのはその値段だ。一そろい専用パーツで作るなら百万円以上は軽く超えるし、安い流用品を使っても八十万円は下らない。 そのことを直接御崎に聞いたら苦笑いしながら、純正パーツは使ってない、と答えられた。 詳しく聞けば、正規の純正パーツは避けて、隣町の怪しげなジャンクショップに流れてくる安いパーツや、壊れたジャンク品を直して使ったり、少し離れた町の宇宙関連の総合廃棄場から拾ってきたり、簡単なものなら自作して、どうにか手の届く範囲で作っているらしい。 しかし、問題はそれだけではなかった。制御のためのOSがこれまた曲者らしいのだ。 よほどコンピュータに強く計算が得意でない限り自作はあまりに無謀。かといって既製品をそのまま使うには、あまりにつくりが継ぎ接ぎだ。 高級品なら自動補正で無理やり飛ばすことも不可能ではないものの、やはり手が届くのは安物で、改造を繰り返しながら安定させているらしい。 と、事あるごとに資金面での壁で行く手を遮られているのが現状だ。 でも、私はそれでいいと思っている。既製品をそのまま作るよりも今のほうが、きっと、ずっと楽しい。 といっても、私に出来ることは部品や工具を取ったり、本当に単純な作業の手伝いぐらいだ。ほかには…… 時計を見る。ちょうど長針と短針が真上を少し回ったところだった。 「そろそろ昼ごはん食べる?」 そう言われて、御崎が久しぶりに顔を上げる。 「ああ、そんな時間か。あと少しで一段落するから、用意してくれると助かる」 荷物を持ち、軽く返事をしてガレージを出る。そして、勝手口から台所へ入った。もう一ヶ月近く行っているので、勝手知ったる他人の家、だ。 聞いたところ、どうやら御崎は一人暮らしで、ご飯は自炊しているという。そのため、かなり切り詰めてロケット製作に当てているらしいのだ。 こっちは夢のおこぼれに与る身だし、料理は嫌いじゃない。趣味と感謝の意をこめて、休みの日だけだが昼食を作っている。 私は荷物の中からいくつかのタッパーを取り出した。 下ごしらえは家で済ませている。あとは調味料を貰って最後の仕上げをしたり、暖めるだけで完成だ。雪のあまり降らない地域とはいえ、なるべく暖かいものが食べたいだろうという私なりの配慮だった。 今日は豚汁と筑前煮だ。ご飯はいつでも食べられるように大量に炊いて冷凍保存してあるものがあるので、それを使わせてもらう。 筑前煮は温めるだけ。豚汁は材料を軽く茹でてきたので、後はミソで少し煮るだけだ。ご飯はレンジで解凍して温める。 しかし、冷静になって考えてみると、意外と私は大胆なんじゃないかと思う。まめに家に通い、共に時間をすごし、こうして料理まで作っている。 きっと他の人から見れば、恋人のように見えるかもしれない。けれど、不思議とそう見られても問題ないと思っている自分がいる。 そりゃ、これだけ二人きりの時間が長ければ、何度か意識することぐらいある。むしろそのほうが健康だろう。でも、やましいことなんか何も無い。それに、御崎は私を意識したこともないだろう。 きっと、彼は、空だけ見ている。 純粋に空を見ている姿は、素直にカッコいいと思う。けれど、それは自分にないものを見て憧れるのと同じだ。恋愛感情とはチョット違う。と、思う。 正直、自分でも解らないのだ。ひょっとしたら恋愛感情なのかもしれない。ただの憧れかもしれない。友情の延長なのかもしれない。 けれど、それでも構わなかった。今の一番はロケットのことだ。それを見てからこの感情の正体を探っても、別に悪くはないだろう。 と、そんな益体もないことを考えていたら、作業を中断した御崎がダイニングに入ってきた。ちょうど昼食も完成している。 「手、洗った?」 「洗った。今、皿出すから」 もう御崎も慣れたものだ。盛り付けを二人でテキパキとこなし、すぐに昼食となる。 既に完成していた筑前煮は良い出来だ。けど、やはりきちんと作っていない豚汁はそれなりの出来だった。ご飯は、言うまでもない。総合してギリギリ及第の六十五点とした。 いつもなら一人採点が終わると、今度は御崎に話しかけるのだが、どうも上手い話題が出てこない。さっき妙なことを考えたおかげで、変な方向に頭が回転している。 だから、今まで聞けなかった疑問がこぼれてきたのかもしれない。 「ねえ、なんで私が手伝うの認めてくれたの?」 御崎の筑前煮を食べていた手が止まる。が、すぐに動き出した。 「おかしいか?」 豚汁に七味をかけながら、そう答えられた。 「別におかしいって訳じゃないけど、今までずっと一人だったんだし、最後まで一人でやり遂げたいとか、悪く聞こえるかもしれないけど、独占したいとかあるじゃない」 「それは……考えたことなかったな。独占したいなんて」 事も無げに答える。が、それは少なからず私に衝撃を与えた。 御崎を見ていれば功名心でこんなことをしていないことはわかる。けれど、ほとんど手伝いに入らないような私が手伝ったことで、一人で成し遂げたと言う達成感は得られなくなる。 だから常々思い、そして考えないようにしていた。私は、邪魔なんじゃないかって。 そんなネガティブな考えを、御崎は笑って一蹴する。 「だって、独占したっていいことないだろ? 分けたら分けただけ、楽しくなれる量は増えると思うんだ」 私は割ることで幸せが減ると考えたけど、御崎は掛けることで幸せが増えると考えたようだ。 功名心も、ついでに欲もない、ほんとうに純粋な考えだ。 「それに、実際手伝ってもらって助かってるし、これで断る理由なんてないだろ?」 「……そうだね」 私のおかしく回転していた頭もクールダウンし、普通の話題も出てくるようになった。 「それで、いまロケットはどのくらい完成してるの?」 「今はジャンクで買ったロケットモーター部分の修理だな。今回はちょうどいいパーツもあるし、半日もあれば直せると思う」 「そう。それじゃ、もうひと踏ん張りしないとね」 ところで、さきほどの御崎の笑顔に私の胸は何かを感じてしまったのだけれど、やっぱり答えを出すのは後回しにする。 だって、今この瞬間が、私には楽しい。わざわざそれを捨てるなんて、できっこない。 「ゆうやけ、って名前はどうかな」 「……なにが?」 突然の私の提案に、コンソールを叩く手を止めてとてもマヌケな顔で御崎が返事をする。 「なにって、これのことよ」 全長五メートル。エンジンは構造が簡単で、小さければ効率もいい固体ロケットエンジン。重量を一グラムでも軽減するために自ら分割しながら、一般的に宇宙と言われる上空百キロを目指す。当然、無人だ。 要するに、御崎のロケットことだ。 すっかり受験勉強から開放され、それでも高校で遅れないようにと勉強は続く微妙な二月の終わりごろ。ようやく御崎のロケットは完成し、今日がその打ち上げ当日だった。 ロケットは既に砂浜に設置された発射台の上に移され、もう幾許も無い地上での時間をすごしている。 ちなみに、発射台設置を手伝っている時に聞いたのだけど、ロケットというのは真っ直ぐ飛ばさないらしい。少しでも力を得るために、地球の自転を利用して東向きに飛ばすそうなのだ。当然それに倣い、この『ゆうやけ』も斜めに設置されている。 「ゆうやけの発射時間まで後どれぐらい?」 「あと……今ちょうど十分切ったな」 時間にも細心の注意を払っている。通常のロケットなら周辺の航行や飛行を禁止して行うのだが、当然ただの個人がそんなことできるはずも無いので、こちらが避けるように飛ばすしかない。 そして、調べ上げたのが、今の時間らしいのだ。飛行機のダイアから周囲数十キロ圏内に飛行機は存在しないことを確認して、この時期近くで漁をする人もいないと調べ、ほぼ確実に安全といっていいらしい。 私としてもこの時間は嬉しかった。ポケットにしのばせていた油性ペンを手に取り、継ぎ接ぎだらけの機体に『ゆうやけ』と書き込む。 私の突然の行動に御崎は一瞬驚いたが、すぐに「まあいいか」という表情になった。 風は無い。そういう気象の日を選んだのだから当然だが、それでも海辺の二月はまだ凍るように寒かった。 それでも、不思議だ。御崎と、そのロケットに出会う少し前より、ずっと寒さに耐えられる。むしろ寒ささえなんだか楽しい気さえする。 時刻はもうすぐ打ち上げ予定の五時に差し掛かる。初めて私がここに来た時と、ほとんど同じ真っ赤に染まった世界。 「あと十秒。カウント始めるぞ」 一瞬だけ、この数ヶ月のことを思い出す。 御崎とロケットに関わる以外、全ていつもと同じ生活。そのはずなのに、なぜか今まで生きてきた中で一番生きていた気がする日々だった。 「八、七、六……」 いよいよ、その集大成が……ちょっと恥ずかしい言い方をすれば、私と御崎の子供が飛び立つ。もっとも、私は育児にほとんど貢献しないダメ母だったけど。 「五秒前、三……」 興奮で心臓がバクバク鳴っている。立ち眩みしそうなほど緊張している。それでも、決して『ゆうやけ』からは目を逸らさない。 「二、一、ゼロっ!」 御崎がコンソールを力強く叩く。 同時に響く低音。ロケットの噴射口から炎が吹き上がり、振動した。それは、ようやく動けた喜びに身を震わせているようにも見える。 |
じりじりと発射台を昇り始め、そして、ある一点を越えたとたん、弾かれるように『ゆうやけ』は加速する。 「よし、いいぞ……!」 発射台を離れ、白煙を残し、空へと突き進む。 ぐんぐん高度を上げる。そして、あっという間に私が始めて見たロケットの高度を越えた。それでも勢いは衰えない。 「……すごい」 思わず言葉がこぼれる。 力強く、赤い夕焼け空に戻っていく流れ星。 肉眼ではほとんど豆粒のようにしか見えなくなっても、私達はただ『ゆうやけ』の行く先を見つめていた。 すっかり日も落ちて、周囲は暗くなっていた。私達は無言で、だけど興奮は隠しきれないまま星を見ていた。 結果から言えば、今回もまた失敗に終わった。 送られてきたデータをかいつまんで御崎が説明してくれた内容は、高度六十キロ付近でパーツの一箇所が破損し、制御が効かなくなって再び地球へ帰って来てしまったらしい、ということだった。 だけど、それは最終目標を達成できなかっただけの話だ。全体で見るなら、『ゆうやけ』は今までの最高飛行時間も、高度も更新した、大成功の部類に入る。 そう、今回だけで終わりじゃない。次があるから、結果として『ゆうやけ』は役目を十分に果たしたのだ。 天気は相変わらず安定していて、風も全くの無風だった。それは寒くて澄んだ空気とあいまって、とてもきれいな星空を見せてくれている。 「そういえば御崎は、高校とかどうするの?」 「ああ、まずは留学してから大検受けようと思ってる」 留学……大検……? 急に出てきた言葉に、ひどく動揺する。 そういえば、受験勉強を特にしているふうでもなかったし、最近では先生もあまり来ていない。 「え、だって、まだロケットだって完成して無いでしょ。なんで突然。どこに?」 「ロケットは夢の第一歩だから死んでも完成させるし、留学っていっても一年だけだ。突然だとは思うけどな。それと、留学先だけど」 御崎はすっと手を上げる。そして、中空に浮かぶ丸い星を指差した。 「月だよ。月の月面恒久基地」 「……月?」 そういえば、どこかで聞いたような気がする。月での日常的な生活のテストケースを実験するために、関係者間で一年のローテーションを組んで生活してるって。 「じゃあ、御崎のご両親って……」 「言ってなかったか? 父さんは宇宙構造建築士で、母さんは船外活動(EVA)資格を持った現役の宇宙飛行士だよ」 なるほど。御崎の宇宙に対する情熱は親譲りなんだ。しかし、それとこれとは話が違う。 脱力する。解ってはいたけど、御崎は本当に私のことを見ていなかったんだ。 気持ちはまだあやふやなままだけれど、後一押しあれば、きっとこの気持ちは固まって形になっていたはずだ。そうなってからじゃ手遅れだった。そう考えると、まだ救いはあるのかも…… 「なあ、柊木」 と、考えていると、不意に声をかけられた。振り向くのがなんとなく怖くて、振り向けなかった。 「一年で帰ってくる。そうしたら……」 心臓が早鐘を打つ。ロケットを打ち上げた時とは違う胸の高鳴りに、体が硬直する。 「そうしたら、なに?」 返事を急かすように、繰り返す。早くして。もう限界に近い。 「そうしたら、今度は本当に宇宙まで飛ぶやつを作ろう」 もしも許されるなら、私はこの瞬間、盛大にコケていただろう。 だけど、振り向いて見た御崎の顔は、いつものように楽しそうに笑っていた。その未来が来ると信じて疑わない笑顔。 その未来の中には、どうやら私も含まれているようだ。 一押し、されちゃったな。 「そうだね。百キロなんてけちなこと言わないで、月まで飛ばそうか」 「なかなか大きく出たな。まあ、すぐには無理だろうけど、いつか必ずそこまで飛ばして見せるさ」 「おー。なら、火星はどう?」 「火星なんてすぐそこだ。見てろよ、日帰りで火星観光できるようにしてやるからな」 バカな話で盛り上がる。いつまで御崎と話が出来るかわからないけど、やっぱりこの瞬間が楽しいことだけは確かだった。 さて、御崎が携帯を持っているとは考えにくいから、出立までにどうにかして携帯を持たせないと。 ロケットみたいに、あの空をこえて届くような強力な奴を!
<おわり>
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