異説・都市伝説

 こんな話を聞いたことがあるだろうか。
 ベッドの下の斧男、ミミズバーガー、黄色い救急車、Q33NY……
 聞いたことがないなら、もっとメジャーなもので花子さんやピアスの白い糸でもいい。
 ある種の信憑性を伴い、知人から知人へと語り継がれていく怪談。その名は都市伝説。
 ただ、都市伝説自体の信憑性というものは、冷静に検証すれば突き崩される。必ずどこかにボロがあるからだ。
 しかし、無数に存在する都市伝説の中に一握りの真実が紛れ込んでいる可能性も十分にありえる。そういう考えも不自然じゃないだろう。
 そう、これは友人の友人から聞いた話……

***

 今年は異様に涼しい日が続いていた。七月も始まっているというのに、朝晩は寒いといって差し支えないほどだ。
 私は電車を降り、ホームに立った。まだ帰宅時間には早いこともあってか、人影はまばらだ。
 そのとき、私と目が合った一人の女の人がこちらに近づいてきた。
 長い髪に、おしとやかそうな顔立ちの美人だ。年齢は……よくわからない。年上のOLのようでもあるし、同い年ぐらいにも見える。
 ただ、目に付くのはその服だ。白を基調としているのはいいんだけど……入院中に着るようなガウンと、映画で見た拘束服を足して二で割ったような奇妙な格好をしている。
 その人は私のそばまで寄ると、話しかけてきた。
「あの、すいません。下りはこちらでいいのでしょうか」
 この辺りの住人じゃないのか、同姓の私でも聞き惚れるような声で訊ねられる。
「あ、逆です。一番線じゃなくて、二番線」
 私はすぐ隣を指差す。実家に最寄りのこの駅は二本しか線路が無く、特急も快速も止まらない小さな駅だ。電車を多用する身として、実に不便でならない。
「そうですか。……ごめんなさい」
「いいえ、どういたしまして」
 それだけの会話を交わし、彼女は二番線のホームに向かった。
 私も家に帰るために階段に向かおうとして、階段を駆け上がってきたサラリーマン風の男にぶつかる。
「す、すいません」
 私の謝罪に、男は低く舌打ちして答えた。
 なに、その態度。そっちからぶつかって来たんじゃないか。
 思わずその男を睨むと、顔を背けて歩いていってしまった。どこにでもいそうな、貧相なオジサンだった。
 そのとき、足元に何かがあるのに気がついた。
『……まもなく、二番線に電車がまいります……』
 電車到着のアナウンスをBGMに、それを手に取る。
 それは、大きいハードカバーの手帳だった。
 誰のだろう? 一応確認するために開こうとした瞬間、耳障りな甲高い音がホームに響き渡る。次いで、鈍い衝撃音と、悲鳴。
 そして、目の前にスイカぐらいの大きさのものが落ちてきた。
 思考が止まる。
 それもそのはずだ。そのスイカには目があり、鼻があり、髪があり、果汁ではない赤い汁が滴っている。
 あまりの事態に、悲鳴を上げることさえ出来ない。
 ただ、私はその異形を凝視していた。
 その異形の目が私を向く。凝視される。
 異形が口を開く。ひゅーひゅーと、風が通る音。そして……
『み……見ないで』
 その一言で世界が反転した。

 次の瞬間、私は自分の部屋にいた。
 どうやって帰ったのかはわからない。でも、今はそんなことどうでもいい。
 見てしまった。目が合ってしまった。
 そして、聞いてしまった。
「なんなのよぉ、いったい……」
 涙が出てくる。緊張の糸がぷっつりと切れてしまった。
 ああ、頭の中がぐちゃぐちゃして考えがまとまらない。
 くそっ。イライラする。こういう時、私の頭はひどく乱暴になる。乱暴になって、無理やりぐちゃぐちゃを押さえ込む。
 落ち着け。まずは冷静になれ、私。
 あんなことが起こるわけがない。あれは錯覚だ。
 目の前に人の頭が転がってきたんだ。混乱するのが普通だ。
 その上で考えろ。あの状況を。
 私は駅のホームにいて、電車が来るってアナウンスが入った。そして、人が……轢かれた。次にバラバラになった頭が飛ばされてきた。ここからが問題だ。
 まず、目が私に向いた気がした。そんなはずはない。転がった勢いで目がこっちを向いた気がしただけだ。
 じゃあ声は? あれは確かに、聞こえた。聞き覚えがある気がする。
 あれは……あれはきっと、私の声だ。見られた気がした。見られたくないと思った。なら私ならこういう。見ないで、って。
 混乱していた私は、無意識に出た言葉をあの頭のものだと思い込んでしまっただけだ。
 そういうこと。冷静になれば……
「うっ……」
 冷静になったらなったで、気持ち悪くなってきた。
 映像で見る死体のほうが現実的で、体がない以外に傷ひとつない生首は非現実的で、ひどく滑稽だった。でも、現実感はないのに、生理的にはすごく気持ち悪い。
 インパクトが強すぎたため思い出したくも無いのにその容貌が思い浮かび、そのくせ映像はフィルターがかかっているようで細かい判別が出来ない。
 もう寝よう。どうせ晩御飯なんて食べられない。
 制服を脱ぎ捨て、そのままベッドへ倒れ込む。
 ある意味貴重な経験だったけど、もう二度と、こんな目に会いたくないな……
 脳は疲労しきっていたので、まどろみが眠りになるまで時間はかからなかった。

 翌日、さすがに昨日の今日で電車に乗れるほど私の神経は図太くないので、私は親に頼み込んで学校に車で送ってもらった。
 そのため、いつもと違ってかなり時間に余裕がある。部活で朝錬しているのを見るのは初めてだった。
「おはよ。早いね」
 人もまばらな教室に着き、一番後ろの席にいた友人の香奈に話しかけた。
 可愛い顔に、左右でくくった髪に、ちっちゃい体。性格も明るく誰とでも気軽に話せる、クラスのマスコット的存在だ。
「おはよう、文。わたし日直……あれ、なんか一日でやつれたね」
 香奈は屈託のない笑顔を浮かべる。ああ、癒されるなぁ。
「ホントにもう、最悪だったのよ」
 私は昨日起こったことを包み隠さず話す。なんか、この子の前だと隠し事したくなくなるのよね。
「昨日の夜は眠りも浅いし、最低よ」
 すべてを話し終わると、香奈は可愛く唸った。
「うーん、朝から結構ハードな話だね」
 確かに朝からするような、気分のいい話ではない。
 少し、迂闊だったかもしれない。香奈みたいな子は、きっとこの手の話は苦手だろう。
「……そうかも。ごめんね」
 しゅんとなって謝る私に、香奈は笑いながら言った。
「いいよー。わたし、オカルトな話は嫌いじゃないから」
 意外だ。外見のイメージとは合わない、新しい一面を見た気がする。
「それにしても、あのときの私の混乱っぷりといったら……たぶんあれが、人生でもトップクラスの汚点になるわ」
「そんなに思いつめないほうがいいよ。誰だってそんなことがあれば混乱するよ」
「うう、慰めてくれるの? 香奈はいい子だね」
 頭をなでる。香奈はそれをくすぐったそうに受けた。
「お返しになにか話しようか? 軽いところで、黒猫の呪いなんてどうかな」
 その途中まで怖くて、オチで脱力する話を聞き終わる頃になると本鈴まであと少しの時間になっていて、クラス内にいる人数もだいぶ増えていた。
 私たちのクラス担任は厳しく、自分が入ってきたときに席についてないと問答無用で遅刻扱いにしてくるので、本当の遅刻組以外は一分前に席につく習慣があった。
「そろそろ時間だね。話、面白かったよ」
「お粗末さまでした。文もあんまり気にしちゃだめだよ」
 私は笑って手を振り、香奈と別れて自分の席に戻った。

 放課後まであっという間に過ぎた。別に楽しかったわけじゃない。浅い眠りのツケを払っただけだ。
「文、今日一緒に帰ろ……って、だるそうだね」
「あー、わかる?」
 寝起きということもあるけど、どっちかというとその眠り自体が問題だった。
「質の悪い睡眠は、いくら積んでもダメ。これ重要。テストに出るよ」
「了解です。で、帰れる?」
「うー、帰るのはいいんだけど、日直は大丈夫なの?」
「それは大丈夫。朝来なかったもう一人がやってくれるって」
 それなら問題ない。私は一日ほとんど使われなかったノートや教科書を通学かばんに詰め込んで、教室を後にした。
 廊下には人があふれていた。私たちはその合間を縫いつつ、下駄箱にたどり着く。
「ひょっとして香奈って、この中にラブレターが入ってたことある?」
 この学校の下駄箱は蓋付きだ。だからまれに、この中にラブレターを入れる古典趣味なやつがいると聞く。
「ううん、無いよ」
 残念だ。出来れば一度でいいから、下駄箱に入ったラブレターというやつを見てみたかったんだけどな。
「……あふれるほど入ってたりするとベターよね」
「言いたいことはなんとなく解ったけど、本当に無いからね」
 上履きから通学靴に履き替える。そしてグラウンドを抜けて、校門を出た。
 学校から駅までは歩いて五分もかからない。さらに私の家までは上りで三駅――だいたい十分くらい――で、そこから自転車を十数分もこげば到着する。
 正直、気が重い。自分がここまでナイーブだとは思わなかったので、朝親に送ってもらったとき「帰りは大丈夫だよ」と言ってしまった。今は後悔している。
「大丈夫? やっぱり、気になる?」
「そりゃ、ね。でも、いつまでも気にするわけにはいかないし」
 そのとき、急に車のクラクションが鳴った。すぐ後ろだ。
 振り向くと、そこには古めかしい白いセダンがいた。
「よーう、お二人さん。乗ってくかい」
 運転席の窓から男が顔を出していた。よれたスーツがよく似合う、渋い中年男性だった。
 いやだなぁ。こんな日の出てる平日に、なんの変哲も無い道端でナンパなんて。
 よく見れば顔は悪くないけど、あくまでそれは中年としてで、私的には完全に圏外だ。
「香奈、行こう」
「ちょうどいいじゃない。送ってもらおうよ」
「……本気?」
「うん。本気」
 ひょっとして、香奈ってそういう趣味があるのか……もしくは、警戒心がかけらも無いのかもしれない。
 とにかく危険なことになる前に香奈と逃げようとしたとき、オジサンが話しかけてきた。
「あー、多分そっちのお嬢さんは勘違いしてるな。俺は、香奈の父親だよ」
「……本当ですか?」
「あれ、文は知らなかったっけ。わたしのお父さんの里見幸一です」
「どうも。香奈がいつも世話になってる。俺のことは幸一さんと呼んでくれ」
 やけにフレンドリーな香奈の父親――幸一さんに多少面食らっていると、さらに言葉を続けられる。
「幸一さんがいやなら、里見さんでも、幸ちゃんでも、小父様でもいいが、幸一さんが一押しだな。職場でも娘にもそう呼ばせている」
「はぁ……」
「さて、無駄話もなんだ。悪くはしないから、まずは乗りなさい」
 言われるがまま、後部座席に私たち二人は乗り込んだ。
 車の中は、かなり汚れていた。
 助手席には本や書類が積まれ、足元には大量のペットボトルや空き缶が散乱していて座る場所は皆無だ。他に、カメラや双眼鏡なんかもある。
 後部座席は比較的まともで、香奈があっという間に本や書類をまとめて幸一さんに手渡した。かなり手馴れている。
 その書類を受取った幸一さんは、助手席にそれを放った。
「さて、俺は仕事帰りだ。どこへなりと付き合ってあげよう」
 どうやらこの車はATでは無いらしく、ガコガコとギアをチェンジする音が聞こえて、緩やかに発進した。
「それじゃ幸一さん、文を家に送ってくれますか?」
「ああ、いいだろう。君の家はどこかな」
 悪いかとも思ったけど、ちょうどいいので私はご好意に甘えることにした。
 自宅の場所を教えると、ミラーに写る幸一さんの口元が少しゆがんだ。
「それじゃあ君は、昨日の人身事故のことを知ってるかい?」
「はい。その事故、私の目の前で起こったので……」
 そのことを言うと、少しだけ幸一さんの雰囲気が変わった気がした。敵意ではなく、たぶん興味や関心だ。
「ほう、それでは少々聞き苦しいが、なにかそこで変わったことはあったかい?」
「幸一さん! 文が困ってる。やめてください」
「あ、いいよ香奈。別に気のせいだし、話としては面白いし」
 私をかばってくれた香奈に感謝しつつ、昨日起こったことを、朝話したときより僅かに冷静に話した。
 いくらまだ電車に乗るのに抵抗を覚えるとはいえ、さすがに楽に話せるくらいには落ち着いていた。この分だと明日くらいには普通に電車に乗れるだろう。
「とまあ、恥ずかしい話なんですけどね」
 話が終わるまで、幸一さんは相槌すらしないで聞き入っていた。
 そして、話が終わってからもしばらくは無言だったが、唐突に口を開いた。
「……そうか。ところで君は『死体洗いのバイト』を知ってるかな?」
「え……はぁ、一応」
 死体洗いのバイト。有名な都市伝説だ。ホルマリンのプール入れられた死体が浮いてくるところを棒でつついて沈めたり、洗ったりするバイトで、誰もが嫌がるためバイト料は高いという。
 突然奇妙な方向に話をそらした張本人は、気にせず話を続けた。
「その『死体洗いのバイト』は実在すると思うかい?」
 私は少し考えた後、言った。
「ないと思います」
「なぜ?」
「この前テレビで見たんですけど、ホルマリンはとても揮発性と毒性が高いそうです。そんなものを剥き出しのプールに入れておけば、危険な上にすぐに無くなってしまいます」
 他にも、どの医者も口をそろえて「ない」と言っていることもある。医学的に必要なことなら、べつに隠す必要は無いと思う。
 幸一さんはうれしそうに口の端を吊り上げた。
「そう、正解だ。でも『死体洗いのバイト』はあるんだよ」
「へ?」
 意味が解らない。私は「そんなもの無い」と否定し、幸一さんはそれを「正解だ」といった。それなのに『死体洗いのバイト』が「ある」という。
「湯灌といってね、死体を洗うんだよ。君の言う都市伝説的なものではなく、遺体を棺に入れる前に清める儀式のことだ。湯灌を行っている葬儀屋にアルバイトで雇われれば、文字通り『死体洗いのバイト』ってわけだ」
 知らなかった。そういうことなら、あっても不思議じゃない。私は素直に感心した。
「詳しいんですね」
「まあ、仕事だから」
 少し困ったような顔で、幸一さんは答えた。
 仕事ということは、葬儀屋関係の仕事なんだろうか。それにしては身だしなみが整っていない。
「幸一さんはね、ホラージャーナリストなんだよ」
 なんだそれ。まったく聞きなれない職業だ。
「別にオカルトジャーナリストでも、心霊ジャーナリストでもいいんだがね。たぶん、君が一生に一度もお目にかからないような雑誌社と契約しているんだ」
「つまり、雑誌記者なんですか?」
「そうとも言う。スポーツ欄の記者がスポーツ選手を追っかけるように、オカルトやホラーな出来事を追っかけるんだ。正体が判らないモノが相手な上に、俺たちみたいなのは風当たりもつらい。まったく、胃に穴が開く仕事さ」
 つまり、世に言うオカルトマニアのための雑誌の記者というわけだ。
 たしかに、店頭でそんな雑誌を見かけたことが無い。見たとしても、たぶん気にも留めていなかっただろう。
 なるほど。香奈がオカルトな話が嫌いじゃないのに合点がいった。もろに親の影響ってわけだ。
 助手席に放り出されている書類を盗み見ると、そこには心霊スポットの体験記や、都市伝説の正体の調査記録などが見て取れた。パソコンで清書する前の覚え書きのような段階らしい。
 そこまでして、少し違和感に気が付いた。昨日の人身事故を、その手の人間が知っていた。さらに、そのことを知る私に聞いてきた。この因果は何だろう。
 よく見ると、周囲の景色は家のすぐ近くのものだった。このまま一分も話さなければ、余計なことを知らなくてすむのかもしれない。
 でも、知りたいという欲求を私は抑えられなかった。
「あの……なんで、人身事故のこと知ってたんですか?」
「ああ、今日の取材で少しその駅に寄らせてもらってね」
 全身に悪寒が走った。じゃあ、つまり、昨日起こったことは……
「勘違いしないで欲しい。今日は君の家の近くで、ある人物の取材をしてね。近くで人身事故があったと聞いて立ち寄っただけさ」
 なんだ、そういうことか。ジャーナリストならフィールドワークは欠かせないものだろう。そういうところが近くにあれば、立ち寄るのも道理だ。
 なんかバカみたいだな。なんでもないことにこんなに怯えるなんて。
 もう家がすぐ前に見えていた。二階建ての普通の一軒家だ。そのことを告げると、幸一さんは車を家の手前に停車させた。ハンドブレーキを引き、ギアをニュートラルに入れる。
「ありがとうございました。助かりました」
「いいや。この程度なら機会があればいつでも付き合おう。次はお茶の一杯でも奢るさ」
 車から降りて、運転席の幸一さんにお礼を言った。そして、後部座席を覗き込む。
「じゃあね、香奈。また明日、学校でね」
「うん。ばいばい」
 今日は香奈の意外な一面を知ることが出来た。たんなる小動物系の性格かと思っていたら、どうやらそれだけでは終わらないらしい。これからこの子と付き合っていると、他にも面白い一面が見られるかもしれない。
 最後にもう一度幸一さんにお辞儀をして、私は白いセダンに背を向ける。
「あと、一ついいかな」
 門に手をかけたとき、なぜか幸一さんが声をかけてきた。
 なぜだか解らないけど、そのとき私は、ぞっとする何かを感じた。
「一つの可能性を決め付けた後に他の可能性が考えられないなら、君は知ることが出来なくてもそのままでいられる。……事故のことは、忘れておくほうが利口だ」
「……それ、どういう……」
 それを聞き終える前に、車は発進していた。
 なんだ、幸一さんは何が言いたかったんだろうか。わからない。
 門を開閉し、玄関をくぐり、階段を上る間も言葉の意味を知ろうと考え続けた。
 疑問と考えに足を囚われつつ、私の部屋の扉を開いた。
 その瞬間、違和感が襲ってきた。
 瞬間には違和感があると理解できるけど、時間がたつにつれて消えていくような、そんな微細な違和感。
 これは『私の部屋』……違う。今の感覚を言葉にして一番近いのは『私の部屋?』だ。
 見た目も何もかも一緒なのに、微妙に違うにおいがする感じだ。
 私は部屋の中を洗いざらいひっくり返した。
 机、タンス、本棚、クローゼット、何もかもだ。でも、変わった所が無いのに違和感は残る。
 そう……これは、いつも見慣れているものが侵された感覚。
 何がそんなことに気づかせたのか、解らない。けれど、確かに違和感はある。
 最初に感じたとおり、部屋のすべてをひっくり返したころには違和感は消えていた。どこに違和感を知らせるきっかけがあったのかを知ることはもう出来ない。
 ただ、違和感は覚えている。確かに感じた。
 すでにいつもの姿となった私の部屋。
 私には、それが不気味に見えて仕方が無かった。

 そのあとは、いつもの夕暮れが待っていた。気を繋がなければ、違和感があったことさえ忘れてしまうような日常だった。
 夕食、いつも見てるTV、お風呂、そして睡眠。
 何の憂いも無ければ、ここでの睡眠はさぞかし気持ちのいいものになっただろう。
 でも、今日はまどろみから抜け出せなかった。
 人身事故、話す頭、幸一さん、違和感……考えることが多すぎる。
 一つ一つ考えるなら、それほど難しい話じゃない。
 偶然起きた人身事故。混乱して話したように見えた頭。私をからかった幸一さん。それを真に受けて感じた違和感。すべて偶然の産物だ。
 でも、私の頭のどこかで警鐘が鳴らされている。
 これは断じて偶然じゃない。なにか、乱暴に切り捨てた思考に隠されたままだ、と。
 ガンガン鳴らされる警鐘のせいで、眠りから起こされる。
 何かを切り捨てて私が思考している? 切り捨てた何かが私に警鐘を鳴らしている? そんなはずない。私の考えは道理にかなっている。ならば、何を切り捨てたというのだ。
 道理を捻じ曲げる真実など、存在してはいけない。するはずが無い。存在しない。
 また乱暴になり始める私の思考。悪癖と解っていても、今回ばかりは冷静さを取り戻すのに必要だった。
 気が付けば日付が変わって二時間近く経過していた。
 そういえば、のどが渇いたな。
 気分転換もかねて台所で麦茶でも飲もうと、ベッドから飛び起きた。
 気分を変えるには思いっきり動くのが大事だ。そして、大またでドアまで向かう途中、何かを思いっきり蹴っ飛ばした。
「やば……」
 派手な音を立てて中身をぶちまける通学バッグ。夜目は効かないが、街灯の薄明かりが差し込むこの部屋ではぼんやりと何が出てきたのか解る。
 ノートに教科書、他にも小道具がいくつか。それと……なんだろう、あれ。
 しゃがんで手に取ると、ずしりと重たい感触。形は小さく分厚いノートのようだ。
 こんなものをバッグの中に入れた記憶が無い。いつ紛れ込んだんだろう。
 閉じたページを開くために、手をかけた。
 その瞬間、全身から汗が噴出した。
 悪寒を通り超え、もはや麻痺に至るほどの気持ちの悪さ。
 見られているのだ。
 熱と質量を持ったねっとりと絡みつく視線が、全身に纏わりつく。
 シャンプーのとき感じる視線を万倍濃く、億倍イヤにしたらこんな風になるだろうか。
 どこから見られているかはすぐにわかる。窓の外に、それは在る。
 振り向く度胸も、意気地も無い。でも、無意識に視線をそこに這わせようとしている。
(見たらダメだ)
 ――何が私を見ているんだ。
(怖い)
 ――知りたい。
(振り向くな)
 ――振り向け。
 相反する欲求が、体を凍りつかせる。もし動けば、体と心の拮抗は崩れてしまう。
 のどの渇きが次第に強まってきた。でも、体は凍りついたまま動こうとしない。
 チクショウ、のどが渇いた。なんでこんな目に私は合っているんだ。誰のせいだ。
 気が付けば動かない体で使える感覚を使い、必死に視線の正体を探ろうとしていた。見たくないけど知りたい、その無意識が産んだ苦肉の策だ。
 時計がうるさい。自分の呼吸する音がうるさい。心音が……血液が体をめぐる音がうるさい。風が耳朶を打つ音がうるさい。こんなにうるさいと、窓の外に何がいるかわからないじゃないか。
 その研ぎ澄まされた聴覚の中で、私の耳は何か不穏な音を聞いた。
 それは、床を歩く音。
 普段なら聞き漏らすような小さな小さな軋む音だけど、その音は限りない恐怖をつれて私の耳に届いた。
 家の中……それもこの階にいるのだ。その音を出す主は。
 こんな時間に起きている人間は我が家にはいない。そして、両親の寝室は階下の一階。トイレも両階にあり、上ってくることはありえない。
 すると、ここにいるのはいったい誰なのか。
 キシキシと不協和音を奏でる床と私の心。
 まさに前門の虎、後門の狼といったところか。
 けど、それのほうがまだマシかもしれない。虎や狼なら、正体が判る。対処できなくても幾分気持ちは楽だ。
 でも、これは違う。そこにいる"なにか"は、私には解らない。何も出来ない。
 ならば自棄だ。せめて知ることで一矢報いよう。首を廻らせるだけでいい。
 くそっ。私はいつからこんなに怖がりになった? 覚悟しろ。首を回すだけだ。欲を言えば、体をひねるだけなんだぞ。
 荒くなる呼吸。加速する心音。近づく足音。止まらない思考。
 全身の筋肉を使い、すべての力を注ぎ込み、気力を使い果たす心持で私は後ろを振り向いた。
 刹那に凝る世界。
 私が気を失う間際に見たもの。
 それは、窓の外に浮かぶ一対の眼光だった。

 非日常と日常の境はどこにあるのだろうか。
 ある日突然に世界のすべてが変容するとするなら、それは日常が変わったに過ぎない。
 では非日常とは何か。
 それは、日常の中にほんの一滴の毒が紛れ込むことに他ならないのだろう。
 何かが違う日常こそが非日常。毒に侵される、この恐ろしさ。
「……ガラじゃないかな」
 そう独白したくなるほど、私はここ二日の出来事に付いて考えさせられていた。
 いったい私はいつこの非日常に紛れ込んでしまったのか。
 言い換えるなら、いつの間に私の日常に毒が混ぜ込まれたのだろう。
 それは際限なく私の日常を蝕み、そして壊死させていっている。
「……っ。まただ」
 昨日の夜から今に至るまでに幾度も感じている視線。
 時間はもうすぐ正午。相変わらず暑くなる兆しは無く、天気予報によれば今日も四月中旬並みの過ごしやすさということだった。
 その過ごしやすい天候も、視線一つで最悪の気分だ。
 あのあと、なぜか私はベッドで寝ていた。
 すべてが夢だと思い込むことでひと時の安寧を得たものの、散らばったノートや教科書と、幾度も視線を感じることでその思い込みはすぐさま否定されてしまった。
 視線は常にあるわけではなく、こうして不定期的にさらされる。
 いっそ常に見られているのなら慣れもするだろうけど、気が付くと潮が引くように無くなっていて、あるとき突然に再開される。
 しかし、次第に神経が磨り減っていくのと反比例するように、私の気持ちの昂りは増していった。
 何が毒で、何処に放り込まれたのか知らない。何のせいで私はこうなっているのか。何で私がこんな目にあわなければいけないのか。
 この昂りを要約するなら、すなわち『冗談じゃない!』だ。
 苛立ちや怒りを超えた、投げやりや捨て鉢とは違う、味わったことの無い奇妙なやる気、と表現すればいいのか。
 たしかに、たった二日で私の神経はかなりピークに達している。今にも泣き出したいくらいにヤバイ。
 でも、何も知らず、怯え、動けず、どうにも出来ないのでは私の完敗だ。
 弱る神経と、昂る精神。天秤にかければ、勝敗は明らかだった。
 なら、昨日した小さな覚悟を大きく、強くする。
 何が発端で、何が起こっているのか。そして……どうすれば元の日常に戻すことが出来るのか。それを知るのだ。
 はっきり言えば、怖い。でも、やらなければならない。
 まずは突破口を探すこと。そして、出来るなら幸一さんともう一度あって話がしたい。
 あとは……考えたく無い、最悪の可能性に備えること。
 普通に考えるなら、この最悪の可能性は突飛すぎて鼻で笑う程度のものだ。でも、慎重に事を進めるのは悪いことじゃない。
 もうすぐチャイムが鳴る。それは、私の戦いを開始するゴングと成る。
 早く鳴れ。鳴り響け。たった二日でお前は私をここまで追い詰めた。上等じゃないか。なら、今度はこちらの番だ……!

「電話、おわったよ」
 放課後、私は香奈と一緒に家の最寄り駅に来ていた。
 そう、あの人身事故のあった駅だ。それはたぶん、事の発端でもあり、なにかキーになることもあるに違いない。と、思う。
「ごめんね。でも、他に話せるような人も思いつかなくて」
 ここまでくる電車の中で、私は香奈にすべて話していた。
 笑われてもいいし、単なる気のせいですべてが徒労に終わってもいい。けど、誰かに私のやっている事を知っていてもらえるのは心強い。
「で、幸一さんは来れそう?」
 先ほど香奈が電話をしていた相手は、幸一さんだ。私から頼んで、会えないか聞いてもらっていたのだ。
「うん。昨日の取材をまとめるのに朝までかかって、たった今まで寝てたんだって。モーニングコーヒーに付き合ってくれるなら喜んで、だって。車でこっち来るから、あと三十分くらいかな」
 よし。これで一つの目標、幸一さんと話すという機会ができた。
 あの人、何か知っているようなんだけど、どういうわけか教えてくれない。それを聞き出せるなら、ものすごい進展だ。
 出来るか出来ないかじゃなくて、やってやる。そういう気持ちが大事だ。
「さあて、何か手がかりがないか、探しますか」
 幸一さんに合流できるまでの三十分間、私は出来る限りの事をしなければならない。
 でも、何をすればいいのかはさっぱりだった。とにかく、今の私には情報が無い。もしあるなら、それに気づけないでいる。
「ねえ香奈。こういうとき、幸一さんだったらどうすると思う?」
「え? うーん……聞き込み、かな。何か変わったことがあったかどうか」
 なるほど。なら、とにかく聞き込みだ。とにかく事故について覚えていること、洗いざらいぶちまけさせてやる。
 さて、どんな人に聞き込みをすればいいんだろうか。
「それとね、聞き込むなら、なるべく経験者がいいんだって」
 それもそうだ。人伝に聞いた人に聞くのも有効ではあるが、経験者には敵わない。
「でも、経験者なんてそんなに簡単に……」
 そこで、私をじっと見る香奈に気が付いた。
 笑顔のままでその目は語っている。経験者は見つけてある、と。
「私?」
「うん。まずは経験した本人が、何かを思い出すのも有効なんじゃないかな。何をしたのか再現してみようよ。辛かったら、やめればいいし」
 確かに、経験した人間が当の私なら気兼ねなく聞きだせるし、限界がどこかもわかる。けど、私は実際事故を見たわけじゃないから、期待できないかもしれない。
 でも、もともと何をすればいいのかわからなかったんだ。やれるだけやってみよう。
「じゃあ、まず電車から降りたところからやってみる」
 私の降りる場所は大体決まっている。もう慣れた路線なので、何号車のどこのドアが階段に近いか知っているからだ。
 そこで電車から降りる真似をした。
「……で、偶然目のあった女の人に、話しかけられたのよね」
「なんて?」
「えーと、確か下りの電車はどっちか、だと思う」
 私はジェスチャーを再開した。
 話し終わったあと、とくに残る理由も無いから階段に向かおうとして、下から駆け上がってきた男にぶつかった。
 こっちは謝ったのに向こうは舌打ちなんかしてきて、ムカついたから睨み返すと、そっぽを向いてどこかへ行ってしまった。
「で、向いた方向に何か落し物を見つけたのよ」
「なにを拾ったの?」
 この次に起こることの印象が強かったので忘れかけていたけど、確かあれは……
「ハードカバーの手帳、だったかな」
 そこで、何か直感めいたものがあった。
 あの時拾った手帳、あれを私はどうしたのだろう。
 あのあとの出来事で、私は気が動転して翌日までほとんど記憶が無い。
 そして昨日の夜、私はカバンをひっくり返して、その中に小さくて分厚い何かを見た。それは明らかに、私が入れた記憶の無いものだった。
 それで今朝、遅刻寸前だったから散らばったものすべて手当たり次第にバッグに詰め込んだ。
 学校でも特にカバンの中を確認しないで、いつものように全部いっぺんに取り出して、そして帰りにしまった。つまり、中を一度も確認していない。
 私は恐る恐るカバンの中をあさる。
 ……あった。取り出すと、それはやはりあの時見た手帳だ。
 どうやら私はあの日、カバンの中にこの手帳を突っ込んで逃げ出したらしい。
 この手帳が事件に関係しているかはわからない。けれど、一つ事実を思い出したのは確かだ。
 とにかく、これの落とし主は誰だろう。興味本位であけようとして、中から何かが転がり落ちた。
 ごろんと転がり落ちたのは、頭。
 映像がフラッシュバックする。あの日、飛んできた頭は誰のものだったのか。
 ぼやけていたピントが急速に合わされ、細部がくっきりと見える。
 そう、この頭は、彼女は……
「へぇ、きれいな人だね。……甲田真南美さんって人のみたいだね」
 香奈が落ちたクレジットカードぐらいの大きさのカードを拾い上げる。
 そこに写っているのは、黒い一本の線と、名前と、そして首から上だけ写された写真。
 写真で頭が写っているのは、私にホームを尋ねてきた彼女だ。
 カードに写った写真と、転がってきた頭の映像が、がっちりと咬み合う。
 そうだった。あの時飛んできた頭は、彼女のものだ。
 その事実に思い当たった瞬間、頭の中の枷が外れた気がした。
 冴え冴えとする思考の中、あの時交わされた会話が甦る。
 彼女はあの時、「ごめんなさい」って確かに言った。気にも留めなかった……というより気にする余裕も無かったけど、この会話の流れは少し変だ。
 普通に考えるなら、ここは「ありがとう」だ。時間をとらせてごめんなさい、というなら解るけど、それ単独で使うのはいかにもおかしい。
 なら、この「ごめんなさい」は何の謝罪だろう。
 まさかとは思うけど、私の周りで起こっている事についてではないだろうか。
 彼女が残した原因……出会ったこと、ホームを尋ねたこと、この手帳とカードを残したこと。頭だけで話したことは、今は考えるべきではない。混乱するだけだ。
 ぱっと考えて、この三つならカードと手帳こそ、私の日常に混ぜられた毒である可能性が高い。
 出会った女性に謝られ、その彼女が死に、私の手元に残された彼女の手帳。少しずつ符合していく欠片。
 あと少し足りないピースを当てはめれば、何かわかるかもしれない。
 さあ、幸一さんが合流するまであと少し。手帳の中を確認して、少しでも知ってやる。この事態の真実を。

 到着時間になると、幸一さんは私たちを小さな喫茶店に連れて行った。
「最近知った穴場でね、コーヒーも美味いが甘いのもなかなかいける。いい店さ」
 と、本人は言っていた。
 到着してみれば、外見はいい感じに古く、とてもいい雰囲気の店だった。
 私たちは奥のテーブル席に陣取り、それぞれの注文をした。
 そして、少しの雑談をしたあとに注文の品が届いた。幸一さんはコーヒー。香奈はホットミルク。私はカプチーノ。
「さてさて、昨日の今日でお茶を奢る事になるとは思わなかったが、それだけのためにこんな中年に会いたかったわけでもないだろう?」
 熱そうなコーヒーを一啜りして、幸一さんが話を切り出してきた。
 おそらく、ジャーナリストとして生きてきた幸一さんに交渉で勝つのは不可能。なら、こっちは探りも騙しもせず、手早く全ての手をさらして釣り上げるだけだ。
「単刀直入に言います。この人、知ってますか?」
 先ほど手元にある事に気づいたカードを見せる。
「ほう、なかなかの美人だが、どうして俺が知っていると思う?」
 余裕のある態度で切り返される。だけど、引くわけにはいかない。こっちの手札は少ないんだ。
「カンです。あと、昨日の意味ありげな言葉」
「勘はともかく、昨日の言葉は君を謀ったものだと思わなかったのかい?」
「例えそうだとしても、他に聞けそうな人もいませんから」
「……ふむ」
 少しの間。私は札を切り損ねていないかどうかを気にしながら待つほか無かった。
「仮に私がこの女性を知っているとして、何が聞きたいんだい?」
 かかった。あとは一気に引き上げるだけだ。
「この人が事故死する間際に私に託した手帳があります。それと引き換えに、今私が置かれている事態の真実を教えてください」
 幸一さんの表情が一変する。驚愕の一色に。
 自分に託されたかどうかは不明だったけど、これで幸一さんは確実に彼女の事を知っていて、ここに書かれている情報も知っていることが解った。
「……読んだのか」
「読みました。でも、意味は解りません」
 手帳の中に書かれていたのは、意味不明な単語の羅列や、聞いたことも無い地名。そして、簡素な日記だけだった。
 特に日記は、見るだけでその境遇が知れるほど、生々しかった。簡素な文章に込められた万感の気持ちを察するに余りあるほどだ。
 幸一さんの表情が苦悶に歪んだかと思うと、すぐに冷静さを取り戻したように顔を元に戻した。
「……手帳は渡しなさい。けど、教えるわけにはいかない」
 なんでですか! と、言いたかったけど、幸一さんの話が終わっていないようなので最大限の自制心をもって止めた。
「君のためだ。もし君が何かいつもと違う空気を感じているなら、それは間違いじゃない。これ以上は、言えない。君は危険な位置にいる。それこそ、全てを失うかもしれない」
 その言葉に気圧される。全てを失う……つまり、死ぬと言うことか。
「……文」
 香奈が心配そうに私を見つめてきた。こういう視線なら、いやな気分じゃない。逆に勇気をくれる。
「私は事の顛末を知りたいだけです。誰かにこれを話したり、深入りしようとするつもりはありません。けど……」
 私は一呼吸置いた。ここから先を言うのは、即ち後戻りしないと言う宣言だ。
「けど、教えてもらえないのなら、私はこの手帳を調べて自分で真実を探し出します」
 お互い、長く長く沈黙した。私はすでに手を出し尽くした。これでダメなら、自分で探し出すしかない。今度こそ、一人で。
 やがて幸一さんが、深いため息をついた。
「そういわれてしまうと、どうしようもない。君を危険にさらさないためだ。知ることより、その手帳を持っているほうが何倍も危険だからね」
 重くのしかかる重圧。けど、私は覚悟した。なら、全てを知るまで退けない。
「その前に、香奈。それを飲んで車にいなさい」
「えっ……幸一さん、なんで……」
「私からもお願い。ここまで付き合ってもらっておいて悪いけど、香奈を危険な目にあわせたくない」
 私が思っている以上に事は大きそうだった。これ以上、自分の勝手で友達にリスクを背負わせることは出来ない。
 私の真剣な態度に、香奈はしぶしぶ了解してくれた。これ以上は私と幸一さんを困らせるだけだし、聞き入れられないと理解しているのだろう。
 席を立つとき、香奈は私たち二人に向き合った。
「これだけは言わせて。文、絶対に危ないと思ったらやめて。それと幸一さん、必要以上に文を危険にしないで下さい……お願い」
 私と幸一さんは、だまって頷いた。
 それを見届けて、不安そうに香奈は店を後にした。
 香奈が扉をくぐってたっぷり時間を空けた後、幸一さんは少し小声で話を始めた。
「さて、これから話す話は、荒唐無稽かつ私の想像が多分に混ざった話……つまりはフィクションだ。君は、やらせジャーナリストの話のネタを聞かされるんだ」
 つまり、ここで話すのはあくまで創造の産物という扱いにしろ、と言うことか。
 私は首を縦に振った。
「いいだろう。さて、君は超能力について何を知っている?」
「え……超能力って、あの触らずに物を動かしたり、透視したり、テレパシーなんかできるって言う……」
「そう。その超能力だ。人類ってやつは、何かしら目新しい事を知るとすぐに兵器転用したがる悪癖があるらしくて、結構真面目に国家規模で研究されてきている。アメリカ然り、ナチス・ドイツ然りね。当然、それが日本で行われていない確証は無いわけだ。日本と言っても、大日本帝国って呼ばれていたときの話だ。けど、そんなオカルトめいた兵器を作る前に、戦争は終わった」
「それじゃ、話はそこで終わるんじゃないですか?」
「ああ、大日本帝国の超能力研究は終わったよ。大量の資料や機材、人材を残してね。
 それに目をつけないわけは無い。それらを使いたくなるのが戦争屋であり、政治家ってやつだ。
 実験は順調だった。とうとう彼らは、世代を変えて優秀な超能力者を生み出す計画に乗り出した。超能力者同士のハイブリッドにしようってわけだ。
 しかし、問題が起きた。ハイブリッドに成功はしたものの、総じて寿命が短かったんだ。それでも、何度もの失敗を経てようやく長命の二世代目が生まれた」
 幸一さんが、テーブルの上に出されていたカードをとんとんと指で叩く。
 彼女が、その長命な超能力者だった……?
「彼女はすくすくと育った。けれど、そこでハイブリッドの特徴がわかったんだ。……強烈な自我だよ。薬でなんか抑えられないくらいね。
 外に出たいと願い、それを叶えるために力を使った彼女。煩雑なプロセスを経て、やっとのことで脱出した。でも当然すぐにばれる。
 そこで命令が下された。殺せってね」
「な、何でですか? すぐに殺せだなんて……」
 信じられない。人を、何だと思ってるんだ。
「落ち着きなさい。これはフィクションだって言ったろ?
 まあ、つまり制御できない兵器は要らない、ってことだと思うよ。いかにも、事なかれ主義の彼らが考えそうなことだ。
 さて、彼女は巡り巡って逃げ回り、ついには追い詰められたと自ら悟った。そして最後に彼女は、この事を誰かに知って欲しいと思ってしまった。そして、手を打った。
 彼女にとって不幸だったのは、その手がすでに見破られていたことだね。当然、彼らは知られちゃまずい事をしてるわけだから、気づかれる前にどうにかしたい……いや、もう既にしたかった、かな。俺みたいな胡散臭いジャーナリストの言葉と違って、物証が残るのはいかにもまずいってわけだ。
 これが、今君の置かれている状況の原因だよ」
 なるほど。つまりあの視線はこの手帳の所在を探す誰かに私が監視されていたということで、部屋で感じた違和感は本当に部屋の中を物色されて微妙に変わった部屋に対してのもの、というわけだ。
「ついでに、話す頭についても少し補足しておこう。
 人間は、首を切られても十秒前後意識を保てると言われている。本当のところはどうか知らないけどね。
 でも普通なら、意識を保てたところで声なんて出せない。声を出すメカニズムを知っているなら、すぐにわかる。
 けれど、例外がいる。もし声帯を使わずに相手に声を伝えられるなら――例えば、テレパシーなんかが使えるなら、頭だけでも話すことは出来る。これが君の見た、話す頭の正体だと思うよ。
 どうだい、満足できたかな?」
 頭の中で整理しきれない、世界の……いや、日常の裏側の事実。
 しかし、私の口をついて出た言葉は一つだ。
「……そんな、馬鹿げてる」
 幸一さんは、そんな私の言葉に大きく頷いた。
「そうさ、馬鹿げてる。大の大人が新しいおもちゃを手に入れて、それに振り回されてるんだからね。
 ……彼女の最後がどういうものだったかだけでも知りたかったよ。自殺か、他殺かによって馬鹿どもの脳みその腐り具合が見れたし、これから俺の行動も変わってくる」
 苛立った様子で限りない毒を吐く幸一さん。それは根深いところの怒りのように感じた。
 たぶん、幸一さんはずっと昔からこの事について知っていたんだ。だからこんなにも詳しいし……なにより、こんなにも悲しんでいる。
「あの……約束の、これ」
 私は彼女――甲田真南美の最後のメッセージを手渡した。
 幸一さんはそれを受取ると、粗雑には扱わずに懐にしまいこんだ。
「これで君は、今までのことは全て忘れ、今起こっていることは気のせいだと思ってくれるんだね。深入りも詮索も、決してしない」
 そういう約束だった。もし話しに嘘が無いなら、私が直面しているのは一介の女子高生には大きすぎる話だ。
「はい」
 手帳がこの後どう使われるかわからない。けど、私の目標は達した。これ以上知ることは、深入りになってしまう。
 ただ、願わくば、事態が好転してほしい。それだけを祈る。

「それじゃ、次に会ったときこそまともな話をしよう」
「はい。楽しみに待ってます」
 店を出て駐車場についた私たちを待っていたのは、香奈の心配そうな顔だった。
 心配ない事を告げても香奈の顔は晴れなかった。勘のいい子だ。私自身、絶対安全だという保証が無いことは、よくわかっている。
 でも、知ることでリスクを負うことは覚悟済みだ。不退転の覚悟で望んだんだ。ここから日常に戻れるかどうかは、運しだいだった。
 それから数分間話をして、私たちは別れた。この喫茶店から家までは歩いてもすぐにつくからだ。
 白いセダンを見送った後、私は知れたという晴れやかな気持ちと、知ったという爆弾を抱えたような重圧を同時に持った実感が同時にわいてきた。
 大丈夫、私は平気だ。そう簡単に人一人を消せるわけが無い。そう自分に言い聞かせて帰路に着いた。
 いつもと違う帰り道。少し心細いけど、小さな公園が見えるとほっとした。
 この公園は、いつも私の帰り道で見かける公園だ。この公園を突っ切れば、いつもの帰り道に戻ることが出来る。
 しかし、そう思った瞬間、あの視線が襲ってきた。
 今の私は事実を知っているけど、それ以上知ろうと思わない。探ろうとせず、無視を決め込めばいい。
 けど、何か変だ。いつもより、これは……濃い。
 いいや、気にするな。無視するんだ。
 視線が少しずつ強まる気がする。
 あと少しで公園に着く。そこを出れば、いつもの帰り道だ。
 いやだ。いやだ。なんで、こんなに、気持ち悪いんだ。
 公園に着いた。いつもの道まで、あと百メートルも無い。
 くそっ。耐えられない。なんで、今はこんなに……
 体が勝手に曲がる。視線を見ようとする。
 その瞬間、首筋に灼熱が奔った。
 叫ぼうとしたけど、声が出ない。痛くは無い。ただ熱くて、そこから熱が逃げ出そうとする。
 低い舌打ちの音。上目遣いになって、その音の出所を見る。
 そこにいたのは、赤くぬらぬらと光るナイフを構えた、駅でぶつかった男。
 赤いナイフが振り下ろされる。
 鈍い衝撃。暗転する視界。
 ああ、そうか。彼女はこいつに……
 今生で最後に感じた感触は、通学バッグを奪われる感覚だけだった。


 文と別れて数分、わたしは車の中で不安に苛まれていた。
 今、文はどうしているだろう。心配だな。
 不安に少し押されるように、わたしは幸一さんに質問した。
「幸一さん……文は大丈夫ですか?」
 車を運転する幸一さんは、終始何かを考えているようだった。
「幸一さん?」
「……ああ、大丈夫。何とかする。三日、いや二日以内に手を打って、安全を確保してみせるよ。蛇の道は蛇だ。すねに傷がない人間なんていないさ」
 よかった。安心した。幸一さんが大丈夫と言って大丈夫にならなかったことは今まで無かった。どんな話をしたのかは知らないけど、あと二日で文は安心して過ごせるようになるんだ。
 文、よかったね。少し幸一さんとの約束破りかもしれないけど、明日にでも教えてあげよう。
 少し安堵すると軽い眠気にさらされて、わたしは小さくあくびをした。

***

 いつのころか、どこが出所かわからない都市伝説が囁かれるようになった。
『見ないで』と呼ばれる話だ。
 電車に轢かれ、頭だけになった死体が話すと言う、荒唐無稽な話。
 誰がどういう目的で流したのかわからない。
 けれど、噂の流れ始めたころにはこういう一文があった。最初に断るように語られ、みな意味もわからず同じように伝える中で、消えて言った一文だ。

「この話は万が一の場合は、私の残した最後のメッセージになります……」

<おわり>


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